
会場への案内図 国府祭の由来
昨年(平成22年)の祭りの様子をご覧ください。
一昨年(平成21年)の祭りの様子をご覧ください。
「国府祭」と書いて「こうのまち」と読みます。端午祭(たんごまつり)あるいは天下まつりとも呼ばれ、千余年の伝統をもつ相模国第一の大祭です。
当日は、寒川神社(さむかわじんじゃ):寒川町、川匂神社(かわわじんじゃ):二宮町、比々多神社(ひひたじんじゃ):伊勢原市、前鳥神社(さきとりじんじゃ):平塚市、八幡神社:平塚市の五社の神が“神揃山(かみそろいやま)”に集まる壮大な祭りです。
また神揃山で行われる“座問答”の神事は特に有名です。この珍しいお祭りにぜひ、お出でください。お待ちしています。
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日 時 平成23年5月5日(木・祝日)
場 所 大磯町 六所神社 神揃山 馬場公園
神事の主な内容
・ 9時30分 総社御大祭 (六所神社)
・10時30分 五社神揃山御成 (神揃山)
・11時00分 五社祭典 (神揃山)
・12時00分 座問答 (神揃山)
・13時30分 鷺の舞奉納 (馬場公園)
・14時00分 五社山下り (神揃山)
・15時30分 鷺の舞奉納 (馬場公園)
※ 駐車場は用意してありませんので、一般交通をご利用ください
9時〜17時まで馬場公園と神揃山付近は交通規制があります
※ 当日は大磯町観光協会も馬場公園で観光グッズを販売しますのでご利用ください。
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会場への案内図


国府祭(こうのまちの由来)
国府祭(こうのまち)は、現大磯町国府に、むかし相模国(さがみのくに)の国府庁(今の県庁)が置かれた国府本郷の神揃山(かみそろいやま)のお祭りと、小字(こあざ)高天原(たかまのはら)別名、逢親場(おおやば)あるいは大矢場(おおやば)で行う国司祭の二つを言う。
相模国の一之宮、寒川(さむかわ)神社=高座郡寒川町鎮座、二之宮、川勾(かわわ)神社=中郡二宮町鎮座、三之宮、比々多(ひびた)神社=伊勢原市鎮座、四之宮、前鳥(さきとり)神社=平塚市鎮座、平塚八幡宮=平塚市鎮座、総社(そうしゃ)六所(ろくしょ)神社=大磯町国府鎮座の相模国・有力大社六社が参加し、関東一の最大の祭典として、また全国的にもめづらしい貴重な祭りとして知られ、神奈川県の無形文化財に指定されている。
国府祭は、国府をコウ、祭をマチと読み「ノ」の助詞をつけて「コウノマチ」と読むのが正しく、奈良・平安時代には2月4日に行なわれていたものが、弘安5年(1282年)に5月5日に、明治に入り太陽暦にとなって6月21日に、そして昭和40年の始めに再び5月5日に改まり、現在に至っている。
奈良・平安時代の国府祭は、単なる祭典行事ではなく、国司が祭り主として行なわれる神祇(じんぎ)制度と国の行政であった。
祭りと政りが同一であった国司の行政が、武家の行政に移り変わり行く中で相模国の場合は、鎌倉幕府の所在国の大祭として崇敬(すうけい)と保護を与えられ、祭典行事となって継続され、現在に至ったものであり、平安朝の文化と行政を、千数百年にわたって伝えている、伝統ある祭典と言える。
国府祭の起源は、大化改新(たいかのかいしん)(645年)までさかのぼることができる。国の中心に国府(こう)(今の県庁)を置き、中央政府より、国司(今の県知事のような人)が任命されて国の行政にあたらせた。
相模国も大化改新以前は、今の大磯より東の方に相武(さがむ)という国があり、西の方には磯長(しなが)という国があった。この二つの国が合併して相模国が成立したと言われている。
中央政府より任命された国司は、任国(にんこく)に着くと、先ず最初に神拝(しんぱい)または巡拝(じゅんぱい)といってその国の有力大社を参拝して回る制度があった。この回る順番によって後に、一之宮、二之宮と称されるようになる。
また、班幣(はんへい)と云って毎年2月4日に祈年祭(きねんさい)等の幣帛(へいはく)として国幣を各社に班(わか)つ習慣があり、国府の近くに斎場を設けて各社の神主(かんぬし)、祝(はふり)等を招き、班幣の神事と荘厳な祭祀(さいし)が行われ、それと共に各地の豪族も招いて盛大な宴会があった。
しかし、時代が経つにつれて、国司の巡拝は、大変な日数と費用と人員を要するため、巡拝する神社の分霊(ぶんれい)を国府近くの神社に合せ祀る(あわせまつる)慣いが起り、これが総社の起源となった。
そこで、国司は総社に分霊を納めていただくために、各社に神輿(みこし)をもって国府に集まるようにお願いした。
国府祭は、国司班幣神事と総社へ分霊を納める祭祀が一体となって、年に一度の盛大な行事となっていったのである。神揃山は班幣の斎場であり、高天原は総社に分霊を納める祭場である。
平安時代の国司によるこのような行事は、全国で多少の違いがあっても行なわれたものであって、現在でも一宮や総社などの地名、人名がある。
国府行政から武家の行政に移りゆくなかで、他の国々ではほとんど消滅していくが、相模国の場合は、鎌倉幕府の所在国となり、総社と五社には、特別なる保護と助成が与えられ、その後、小田原北條氏、徳川家康も保護と助成にを加えられ明治に至った。
このような保護と助成の元に、一之宮から総社までの氏子70ヵ村の人達は、この祭りの伝統護持に努力を重ねてきたことは申すまでもなく、他村を加えことごとく国府に参り、露店1000軒、人出数万人で賑わったと古書には記されている。
出典 総社 六所神社『相模国府祭』の御由緒 |
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